それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

「耳をすませば」

 

耳をすませばのテーマは「成長」「家族」である。そしてこの作品が公開された95年にはもう一つ、エヴァンゲリオンという作品がテレビ放送された。一大ブームを巻き起こした作品であるが、「思春期における成長過程」を描いている点で、耳をすませばと類似している。しかし、その描き方は正反対である。同年に出現した、全く異なる方法論で描かれた二つの作品を比較してみる。


 エヴァンゲリオンとは「アイデンティティの確立」がテーマの物語であると考える。ストーリーを一言で言えば、平凡な主人公が平和を守るためにロボットに乗り込み、敵と戦うというものである。エヴァの基本は単純なロボットアニメの文法にあるのだ。しかしそのロボットアニメという枠組みを使って、エヴァは主人公の精神的な物語として集約していく。巨大ロボットという絶対的な存在と、主人公の思春期におけるアイデンティティの曖昧さ。主人公の「逃げちゃダメだ」というセリフが印象的である。敵の襲来、敬遠している父との関係、周りの人々との関係、全ての問題において主人公が能動的に行動することは少ない。周りに流されながらも、少しずつ成長の兆しを見せていく。そしてラストで主人公は「ここにいてもいいんだ」という結論を導くのである。


 エヴァンゲリオンは日本アニメの中でも影響力の強い作品であったし、難解な作品とされ評価も二分されている。しかし90年代の「成長観」の一つとして捉えてみると、現代の若者の姿を端的に表していた作品だったのではないか。


 一方の「耳をすませば」の場合。雫は自分の可能性を試すために物語を書くことに受験勉強もそっちのけで没頭する。その姿は絶対的な自己を追い求めているように見える。非常に能動的な姿が描かかれ、これは現代では異質なものといえる。現代は自己を相対化する時代からだ。場所ごと、接する人ごとに自分の姿を変えていくのが今の時代である(よく「○○キャラ」とか「キャラ違い」というのはこのことを端的に表現していると思う。)。エヴァの主人公である碇シンジもそのような描かれ方をされていた。そのなかであくまで自己の絶対的な可能性を追及しようとする姿は、すこし古い考え方とも取れる。

宮崎駿氏はこれを狙ってやっているように思える。この時代に、自立し、他者に左右されず自己の行動によってのみ自我を確立する10代の姿を映し出したかったのではないだろうか。


 近藤喜文監督のインタビューで「当初、僕はこの雫なり、雫が想いを寄せる少年をフツーの男の子にしたかったんですが、宮崎さんの考えは絵コンテを描くに従い、違ってきた。途中から描くに値する理想の人物として雫や聖司を描き始めた。具体的には、雫が「物語」を書こうとするあたりからかな。やっぱり宮崎さんだなぁという感想を持ちましたね」と語っていることからもそれは推測される。

つまり、とにかく自己の内面に没入してがんばってみる。そのことによってのみ本当の自己と言うものが確立されるんだ、ということをこの自己相対化の時代に訴えたかったと推察する。


 エヴァンゲリオンの主人公像=現代の若者そのもの。宮崎駿アニメの主人公像=現代の若者に求める理想像。二つの作品を比較して、このような結論を出す事が出来ると考える。


 こうしてみていくと、耳をすませばの「成長観」「家族観」はむしろ時代に逆行したものだと言えるのではないだろうか。私はこの作品が、多様化する価値観が溢れている現代に、あえて絶対的な「価値観」を提示したのではないかと考える。


 耳をすませばでは、未来はぼやけたままだ。雫に小説の才能があるのか、聖司に職人の適正があるのか、そういった事が描かれていないのである。そこにあるのは夢に向かう前向きな姿勢であり、努力であり、それを温かい眼差しで見つめる家族の姿であった。宮崎駿氏はインタビューで「この作品は、一つの理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら生きることの素晴らしさを、ぬけぬけと唄いあげようという挑戦である」と語った。混沌とする現代において「耳をすませば」とは、一つの理想形とも言えるものをを観客である私たちに示した上で、「成長」を求めた作品だったと言えるのではないだろうか。