それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

「放送禁止5 ~しじんの村~」


最近DVDも発売されてだいぶ認知度が高まったであろう「放送禁止」シリーズも、はや五話目となりました。やはりその認知度・注目度が上がってきたためか「この番組はフィクションです」という文言が番組冒頭で流されました。この番組はいわゆる「フェイクドキュメンタリー」なんですが、こういうものを民放局がやる意義っていうのは結構大きいと思うんですよね。つまりは「テレビは嘘をつく」という事をばらしちゃってる訳で。「メディアリテラシー」の初歩の初歩ってやつです。そう考え始めると、結局は「フェイクドキュメンタリー」っていうくくりの中でまんまと製作者側の意図通りに物語を消費させられてしまっている訳で、それはニュース番組を疑う事無く受け入れてしまう事と構造的にはそう大差のない事だったりして。この番組の後に普通のドキュメンタリー番組を放送しているのも、ちょっとだけ示唆に富んだものの様に思えてきます。


今回は番組内におけるカップル(役)を「あいのり」のパロディというか同じような映像の構図・演出で撮っていて、その手の内を見せてきたりもしてました。何にせよこの番組が優れている点は色々ある訳ですが、その一つにテレビドラマの教科書とも言える時間配分が挙げられるでしょう。起承転結の起・承の中盤までCMなしで一気に視聴者の興味を惹きつけ、後は承2・転1・転2……という風にCM毎にきっちり話を進めて、ラストまで緊迫感を持って引っ張ってく手腕みたいなものはDVDだとわからない点かもしれません。やっぱりフェイクだって知らないで見てる時は、番組のスピード感が一番重要ですから。訳わかんないうちにとんでもないとこまで連れてかれちゃってる感覚が気持ちいいのです。


で、気持ちいいと言えばこの番組、番組序盤でちゃんと核心に迫る情報は大体出てきてるんですよね。何でそこに気づかなかったんだろう、っていうポイントが結構出てきます。今回はDVDが出たという事もあって、結構わかりやすく情報は出てきてましたね。例えば、しじんのインタビュー中の画面左上の書道には「ね」が四つ書いてあったり(ねが四つで「死ね」)、「しじんの村」という看板の見方を変えると「しにん(死人)の村」に読めたり。あと、しじんのせいで自殺した(殺された)T君とその両親の写真が序盤に大写しになります。その両親はフクとシュウという仮名を使って(復讐)しじんの村に潜入しているんですが、直前に写真が出てきていたのに何故かそこに思考が繋がらないもどかしさ。このパターンは3話のストーカー地獄編でも使われてました。絶妙だったのは、自殺未遂が起こる場所には必ずしじんがビデオカメラを持って現れていた点。画面から感じた違和感が一気に疑問となりそれがラストに明らかになる過程こそ、この番組の醍醐味といえるでしょう。またこのシリーズの特色として、実際のデータや学者の考察をドラマに取り入れている事も効果的に働いています。これもまた3話にてこのデータを踏まえた鮮やかな謎解きが行われているので、機会があったらDVDにてご鑑賞下さい。


という事で、今回は謎解きというよりも純粋に一つの物語としておもしろい話だったかなぁと。最近は人生応援歌だったり「癒しブーム」における詩や絵本ブームに乗って、「みつを的」メッセージが世の中に溢れています。何かを伝えているようで悟っているようで、その実、何も語っていないかの様な。そういうもの達に付き纏うそこはかとない「うさんくささ」みたいなものは私も常に感じていて、まさにそこの部分が描かれている作品だったので素直に共感できました。ラストチャプターの演出も好きだったし。


あとやっぱりドキュメンタリーの体をとっている分、日常に潜む狂気の描き方には一日の長があるんですよね。しじんのインタビュー中、村中に監視カメラが仕掛けられ、その映像が一室でモニタリング出来る様になっている事が明らかになる件では思わず声が洩れました。村の何処にいようと自殺する瞬間がつぶさにしじんの目に入るという事。ここら辺から一気に物語が反転して見えてきて、そうなると詩や会話の意味ががらりと違うものとしてもう一度入ってくる。淡々とした語り口からは想像できない事、もしくは透けて見えてくるもの。今回は、ドキュメンタリー形式であるこの番組の持つ本質的な魅力がつぶさに見て取れるお話だったのではないでしょうか。