それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

「時をかける少女」 / 細田守


青春なんて不細工なもんで。「あの頃」の事を思い返すと、誰しも恥ずかしくって布団の中でじたばたしてしまう様な恥ずかしい思い出がいくらでも出てくるんじゃないだろうか。この映画はまさに、そんな「青春」を描いたとしか言い様のない作品だ。主人公の真琴はどこにでもいる普通の女子高生。青春真っ只中を不器用に走り抜けている真っ最中である。そんな青春の不細工さの象徴として、真琴はとにかく走る。走っている。野球のボールに追いつくためだったり、学校に遅刻しないためだったり。そこには日常が過ぎ去っていくスピードに追いつこうとする、そんな姿が垣間見える。


time waits for no one.


時は僕らを待ってくれない、はずだった。しかし真琴は過去へと走り始める。タイムリープ。そんな時間を飛び越える能力さえも、青春は不細工に染めていく。時をかけるたびに真琴は川に落ちたりゴミ箱に突っ込んだりと、その様子はとにかく冴えない。友達一人も思い通りに導けないし、人の恋路は邪魔してばかりで。その能力の絶対性とは対照的だ。そして一番重要な場面で、その能力は使えなくなってしまう。真琴はそこでもやはりただただ走って走って走りぬいて、その運命の前になすすべなく泣き叫ぶのみだった。


結局、時を遡る能力をもってしても「青春」が過ぎ去っていくのを止める事は出来なかった。友人のため、初恋の人のために真琴は走り続けたけれども、運命を思い通りに操る事なんてやっぱり不可能で。どうやったって青春は不器用で不細工で、恥ずかしいものにしかならないと、そういう事なんだろう。体中に傷つくって、鼻水たらしながら大泣きして。でも、そうやって懸命に青春を生きていくからこそ、そんな経験が恥ずかしいけれども、大切で、愛おしい思い出として昇華していくものなんだろう。


この作品における「走る」表現は、映画版のクレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」の影響を受けているように感じた。全体的なテイストとしても、美化したい過去とこれから先の未来をテーマに、子供が「今」を生きていく姿を描いている点も似ている。しんちゃんもラストに、転んで傷だらけになりながら鼻血を出しながら、それでも懸命に「走る」姿を見せている。真琴もタイムリープの能力を失った後、必死に初恋の人の元へと走っていく。それは日常に追いつくためでも、過去へと遡るためでもない、未来への道筋である。


time waits for no one.


時は誰も待ってはくれない。しかし、時は誰にでも平等に訪れる。未来には愛しい人や素敵な出来事が待っているかもしれない。そんな「出会い」のために、僕らは必死に毎日を生きていく。そして日々を必死に生きていくからこそ、未来がより輝かしいものへと変わっていくのだろう。


青空の下、淡々とした語り口で展開していく隙のない青春映画の傑作である。