それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

げんなりする。


この一週間、心身ともに磨り減っていくような状況に置かれておりましたが、ようやくゆったりとした時間を確保する事ができました。げんなりしたとしかいいようのない流れの中で、個人的にもハロプロ内でもいろいろな出来事が起こっていたようで。℃-uteさんのライブに立ち会えなかったのは悔しかったですね。あと、実はFC東京のファンなので、東京Vとの試合も結局行けずじまい。いしよしのやつの続きも旬をすっかり取り逃してしまいました。いや、書きますけどね自分のために。ただただ書きたいだけなので。


だからきっと「歌をもう一度歌いたい」っていう、ただその一言、その気持ちだけあればもう、それだけでいいんだと思います。少なくとも、ファンと彼女の間では。もちろん、げんなりするような現実はそこかしこに存在するわけですけど、それでもやっぱり「歌を歌いたい」と、そう言い続けていて欲しいんです。


僕にはもうストーカーと写真週刊誌との差異がわかりませんし(本当は知ってるけど)、まして一度自分を殺した相手とにこやかに談笑しなければならない彼女の気持ち推し量る事なんて到底できなくて。でも、そんな写真週刊誌に載っている盗撮風の写真や、(恐らくは心労で)痩せてぎこちなく笑みを浮かべる彼女の表情や言葉を読んで、やっと戻ってきてくれた(そういう宣言でしょ?あれ。)と安心している自分もいるんです。そこには自分とストーカーの違いなんてものは、至極曖昧なものでしかなくて。


以前、いつのまにか自然消滅的な感じになってしまった彼女がいたのですが、そんな間柄でも、やっぱりその人の事が気になったりする訳で。「連絡しないようになってしまっている状況」でも、共通の友人もいれば電話番号もメルアドだって知ってるし、なんならmixiではマイミクのまんまだったりもして。でも、そこで例えば彼女の日記を盗みみる事っていうのは、それはあの子(Wと℃-uteの)がストーカーにされた事といったい何が違うのかなぁ、とか。好きな人の事をもっと知りたいっていう欲求は誰しもが持っていて、そこで正当化されていい行動がいったいどこまでかなんてものはわからないんだけど。でもきっと、僕はそういう自分の醜い部分が嫌いで、認めたくなくて、だからこそ℃-uteのあの子の件ではいろんな状況に拒否反応が出たんだろうなぁと、今更ながらに思考を整理しています。


でもいったん面倒くさい、げんなりとするような現実問題を考えないようにすると、好きな人に対して素直に愛してるという事は本当に大切だなと思うし、どんな形であれ目の前にいるのなら、受け止めて受け入れて、しっかりと離さない事が重要で。きっとそれが後悔しない唯一の方法なんでしょう。だから、いつか戻ってくるであろう加護さんを待って待って、本当に目の前に戻ってきてくれた時、もう今度は離れていかないように、そういう風に愛していけたらいいんじゃないかなぁと、うん、きっとそういう事なんだろうと。愛する人を、即、抱きしめててね。