それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

キスは一人じゃ、誰も出来ません


ときどき、全ての恋愛は等しく茶番であればいいのになと思う事があります。もちろん当事者である私たちは往々にして、真剣にカレシカノジョを演じてしまいますし、ひょっとすると演じている事にすら気づかない場合がほとんどなのかもしれません。もちろん真剣である事に何の問題もないんですけど、ただ、恋は盲目じゃないですかやっぱり、どうしても。全てのものごとが駆け足でシリアスな方向に向けられてしまうような、そう、ほら、俺たちに明日はないみたいな、あんな感じで踊ってしまったりもしてね、死のダンスを。


だからこそ、茶番であったらよかったのにと、そう思います。馬鹿馬鹿しくてわざとらしくてでもどこか幼くて愛らしくみえる、そんな茶番。セケンとかジムショとかアイドルとか加護ちゃんとか元モー娘。とかUUの加護亜依とかあいぼんとか未成年のメンバーAとか、「加護亜依」とか。そんな肩書きや立場に、周囲も本人も囚われて苦しんで、結局、誰もが望まない結末を迎えてしまう。あまり意味のないように思える、けれども彼女達が懸命に築きあげてきたそういうものに、簡単に壊されちゃったんだよね。彼女自身も、ファンと彼女の恋愛も。茶番でいいのに。嘘つけばいいのに。誰も望まない事実が暴かれたとして、それは果たして真実なのかどうか。ファンと彼女との間にあった真実は決してそんなもんじゃなかったはずだし、それはきっと過去形にするようなものじゃない。


みんな一瞬、真剣になりすぎちゃったのかもね。誰かが笑ってやればよかったのに。加護ちゃん、それかっこわりぃよってだせぇよって。お前の彼氏やばくねって茶化してやればよかったのに。何が未成年への悪影響だよな、こういうときばっか。誰かそういう人がさ、誰かがさ、誰か、か。


加護亜依」の未来は絶たれてしまったけど、でも加護亜依は今もこれからもアイドルとして、音楽の中にもブラウン管の中にもCDの中にも本の中にも紙の中にも文字の中にもモーニング娘。の中にもハロプロメンバーの中にも頭の中にも心の中にも、あと、きっと辻さんの中にも、ずっと生きてますよ。その方がシアワセだったのかもしれないしさ、彼女にとってもファンにとっても。永遠に彼女は加護亜依として生き続けられるんだから。安倍さんはもうなっちじゃないかもしれないし、松浦さんはすでにあややじゃない。いずれは久住さんだってきらりではなくなる。でも、彼女は永遠に加護亜依でありつづける。それはきっと幸せなことでしょ? そう思うしかないでしょ。


もうこれ以上ないってくらい、アイドルとしての「加護亜依」はちゃんと成仏したんだから、だから、もう彼女は安心して今まで出来なかったような普通の生活をして、小さな成功とちょっとした失敗や悲しみを繰り返しながら、僕らのように平凡で退屈な、でもちゃんと自分の力だけで掴み取れるくらいの幸せを抱えて、平穏な毎日を生きていって欲しいなと思います。そうしてまた、いつかどっかでうたをうたってたら、もうそれでいいんじゃないの。うたはCDとかゆーちゅーぶとかテレビとかあいぽっどとか、そんな小さな箱だけに収まってるものじゃないはず。どっかの道端で、どっかの公園で、どっかの家の庭先で、楽しそうにうたう彼女の声が聞こえてきたら、もうそれでいいんじゃないの。



みんな何でもどんどん忘れてゆき

ただ欲望だけがかわらずあり そこを通りすぎる

名前だけが変わっていった



それだけ。ただ、それだけのこと。