それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

伝えるということ

 

けれども、言語でアイドルを捉えていくことの面白さを僕は知っているし、人間は(良くも悪くも)考える生き物だから、やっぱりアイドルを「思考」してしまうことを止められない。対象について考えるということは対象を何らかの枠組みの中に取り込むということなので、思考した結果を「語る」ということは、やはり他人に枠組みを押し付けているとも言えるのかもしれない。ただ僕は「アイドル」そのものが持つ面白みはもちろん、「ファンが切り取ったアイドル」にもある一定のリアリティを感じているし、ある種のいとおしさなのか面白みなのか、あるいは親近感なのか、「アイドルファンが語るアイドル」に何らかの感情を揺さぶられ続けている。



やっぱり少女の歌声の独特の油性というかネバネバした歌声に遭遇すると、いぜんはとてもそれこそが大好きだったのですが、今はただ恐ろしさを感じてしまいます。キュート萌えやベリーズ萌えの方々はこうした歌声を克服しているのかそれともそれこそ最高なのだと思っていらっしゃるのか想像がつきませんが、こうした歌声が世に響いているときの異様さだけはたしかにある気がしてしまいます、未発達な咽の痙攣音が少女たちの生活レベルの発声を超えてしまうときの音はできれば避けてしまいたい音です、都会っ子純情ではっ!とさせられた声ですが、これは、あぁ!の頃の愛理にどことなく似ているので、最初は愛理?って思ったのですが、PVを見て見ましたらどうやらまいまいらしいです、ここでのまいまいの歌声は言葉が言葉へと遷るときに糸をひいているようにネバネバしながら響いてきます、それは咽に付着する幼さのように歌声がまいまいの咽から口腔を出発しこちらに到達しても拭い取れません、まいまいの歌声の異様さはもちろん美しいはずなのですが(実際私は夢中でPVをききました)、私には耳を覆いたくなる恐ろしく現実味のある音だと思われるのです、都会っ子純情にはまいまいの声が充満していました。


http://blog.livedoor.jp/t_s_u_j_i_k_a_g_o/archives/51711238.html


彼女らの声は異様であり、異様であるからこそ美しい。「都会っ子純情にはまいまいの声が充満していました」と、都会っ子純情についての文章でこれほど端的に萩原さんの特異性を表したものを僕は知りません。この方のブログには、アイドルが生きています。



娘。言葉、娘。が娘。を語る時だけがこの世でただ唯一娘。を語る事ができているんじゃないかと思える時がある、辻ちゃんが語るあいぼんへの言葉に、加護ちゃんが語るのんへの言葉には、ああ、梨華っちの辻ちゃんへの言葉には到底僕は打ち勝つ事などできなかった、娘。に対して、娘。を愛しているという事を、その言葉を、愛情をどうにかなにをもってでも表明するという事だけに取り憑かれていった自分は今、ただ、そうした娘。たちの娘。への言葉だけに命を澄ますべきなのではないか


そして今夜、ガキさんは愛ちゃんについてもポケポケプーと言っていた、これからは、ガキさんがポケポケプーを発するその瞬間の光景をその意味を、なにか、ガキさんがまるで幸せと言っているかのようなポケポケプー、娘。の愛おしい瞬間をただ唯一表す事のできるその花の言葉のようなポケポケプーをしっかりと心に刻んでゆきたい、ガキさんがポケポケプーと言ってくれている間は娘。も俺たちも絶対に大丈夫だ、ガキさん、愛しいガキさん、これからも、指折り数える事ができないくらいのいっぱいのポケポケプーをきかせておくれ


http://blog.livedoor.jp/t_s_u_j_i_k_a_g_o/archives/51696605.html


去年から今年にかけてハロプロには色んなことがありました。悲しい出来事もたくさんあって。色んな人がいなくなっていって。でもそれでも、彼女らは、この方のブログの中に生きています。そしてそれは、とてつもなく素敵なことだと、思うのです。僕らがこうしてブログを書いているのは、彼女たちへのメッセージなのかもしれないし、その感じた想いをその時のまま保存しているのかもしれないし、ひょっとしたら、彼女達にことばの中で生きていってもらっているのかもしれない。そうした言葉を守っていくこと、さがしていくこと、求めていくことに神経を研ぎ澄ませること。とにもかくにも素敵なブログです。