それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

雅やかな群青と泡沫な少女の ―泡沫サタデーナイト!(モーニング娘。'16)への恋文―

泡沫サタデーナイト! / モーニング娘。'16


モーニング娘。'16『泡沫サタデーナイト!』(Morning Musume。'16[Ephemeral Saturday Night]) (Promotion Edit)

 

モーニング娘。について、ハロプロについて書くのはいつぶりだろうか。ブログを遡れば、6年前。「あの頃の」スマイレージについて書いていた。娘。については、もう8年も前のこと。スマイレージアンジュルムになりモーニング娘。はモーニングムスメワンフォーになりワンファイブになりモーニング娘。'16となっていた。 

 

行く末。彼女達の行く末を観ていたいと、あの頃思っていた。たぶん。書かなかったことと観ていないということは同義ではなくて。アンジュルムの大器晩成は狂ったように聴きこんでいたし、℃-uteのイベントでは鈴木愛理さんにメッセージが読まれて天にも昇るような気持ちになっていたし。つんく♂さんがああいうことになって。それでも、それでもっていう生き様に感動して。

今年になって改めて過去のブログを読み返して感じたのは、そこにある熱。何か文章のそこかしこからじんわりと伝わってくる感情と感傷。熱気を帯びた「オタ」という存在になりたくて、ある意味でオタというテーゼを自らに落とし込むかのように、落とし込みたくて書いていたんだと思います。アイドルと「恋愛」をしているファンの方々が羨ましくって眩しくて、憧れを持ってそうなろうとしていた、そんな感覚。今年6年ぶりにこのブログを更新し始めたのは、自分の中にある(あるいはあった)記憶と感情に対する自己肯定感だったように思う。自己の未熟さと稚拙さに起因する瑞々しさに対する承認欲求を、数年後の自分が自分で満たしていくという生産性のない作業を、今も続けている。

 

だから、自分の中ではこの「ハロプロ」カテゴリで何かを書くということは熱量がいることであって。20代前半のあの頃の熱量と感覚と感性で持ってメディアと触れていかなければ、とてもじゃないけど。こんな誰も読んでいないブログであったとしても、あるいはだからこそ、熱から覚めたような、軽々しい「何か」を表現する気にはなれなかった。

 

でも。それでも。モーニング娘。はそこに在って。在り続けて。継承と発展を繰り返し、今だっていつだって最高のアイドルグループとしてそこにいてくれて。「あの頃」のアイドルたちは、娘。達は、もう既にアイドルではなくなっているかもしれないし、ファンの中ではアイドルであり続けているかもしれないし、ファンの中で、メディアの中で、記憶の中で「あの頃のまま」生き続けているかもしれない。けど。

 

けど、それでもモーニング娘。は現在進行形であり続ける。あり続けている。その意味、その意義、その価値。

 

それはもう、人生と等しいんだろうと思う。娘。という存在自体がもはや1つの概念であり現象であり生命体として永遠性を帯び始めているんじゃないか。その永遠性のなかにある別れの匂いと(アイドルとしての)死の香り。色んな人の想いと関係性と過去と未来と現在の連鎖の中で、それはきっと「生きている」。

 

何が書きたかったのかといえば、泡沫サタデーナイト!が、「あの頃の娘。」を「今の最高な娘。」が表現してるファンキーでファッキンクールな楽曲だっていうことです。このブログを書いているのは日曜日の早朝4時18分だけど、それでもまだきっとサタデーナイト。心して買え。