それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

全てを受け止めようと、感じました

先日、ネットでお知り合いになった方とお会いしたときに言われた事。「日記書かないって事は、死んだのと同じですよ。」確かに、と思ったので小さな事からコツコツとの精神でリハビリテーション。どんなに精神的に繋がっていると勝手に思ってる友達でさえ、まぁ頻繁には会えないしメールをする訳でもありませんから。何はなくとも何かを残していく、書き残していく事は大切なんだなぁと気づかされました。でもね、たくさんたくさん書きたかった事はあって、吉澤さんの卒業コンサートについてはそれこそ昼も夜も食い入る様に見つめていましたから、書きたい事がなくなるまで書いていこうと思います。そんな事を考えていた矢先、辻さんのニュースが飛び込んできて、正直いって、語弊があるかもしれないけれどやっぱり「おもろい」なと、ハロプロおもろいなと改めて感じている次第です。


「私の中でのモーニング娘。がいなくなっちゃうんですよ。」とはよく言ったもので、さすがはワンフレーズポリティクスの女王がきさん。その言葉を聞いて、僕はさいたまスーパーアリーナの片隅で腰から崩れ落ちていました。あの大きな会場が一面真っ白なサイリウムで染まっていくのを目の当たりにして、卒業コンサートというものを初めて体験する僕にとってそれはやっぱり感動的で神聖なものであり、それと同時に娘。が終っていく様な、もう二度とこんな大会場に人がごった返す様な事は起こりえないんじゃないかとか、そんな感傷的な気分も相まって、がきさんの言葉がより胸に響いてきたんです、その瞬間は。でも、時間を置いて少し冷静になって、また希望をこめた目線で振り返ってみれば、まだまだモーニング娘。は終っちゃいねぇのれすよ。「出会いがあれば別れがあり、終わりがあるから、また始まる。」この吉澤さんの言葉はまさに「モーニング娘。」というコンセプトそのものであって、そういう意味で言えば、むしろ吉澤さんがいなくなるからこそ、また新たな娘。を始める事が出来る訳です。


それでもがきさんの言う通り、何かが終ってしまった様な気がするのも確かで。じゃぁ一体何が終ったんだろうと。「ASAYAN的なコンセプト」っていうのは、まぁ、パッと思いつくところ。でもね、もはやそのコンセプトなり精神っていうのは娘。だけに収まるものじゃなくなっていて、ハロプロ全体に深く根付いているものだと思うんです。三次元のアイドルを愛でていくという事は、やっぱりそれは対象ではあるけれど決して概念ではなく、商品ではあるけれど人間でもあって、形態は多種多様だけれどもモノではなくて、虚構でも現実でもある、そういう存在として認識していくという事。例えば辻さん加護さんだったりっていう、少女の青春を、人間の人生を「消費」していく事っていうのは、全く予想もつかない展開が永遠に待ち受けていくという事で、それはASAYANっていう一番組のコンセプトをなぞっているとも言えるし、そうでないとすれば、それは人が生きていくっていう事そのものだから。


あの日あの時さいたまで、あの瞬間に終ってしまったもの、それは多分「四期」っていう概念そのものだったんじゃないのかなぁ。正確にいうと、モーニング娘。の中で「四期」が果していた役割や物語とか、そういうの。何だかんだで、矢口さんがいなくなっちゃったあの時、初期から続いてきたモーニング娘。は一回終ってたんだと思う。吉澤さんは娘。を引き継いだんじゃなくて、新しく築いてきたんだよ。「ライバル同士」だったメンバーの関係性が、明確に「家族」になったのも、吉澤さんの、もしくは四期全体が共有していたコンセプトの成せる業だろうし。それはガッタスだったり、もしかするとハロプロ全体にもそういう雰囲気が漂っていたように感じる。全てが一つのモノに集約されていくような、そんな感覚。


でも、もうそれも終ってしまった。幸せな時間は終ってしまった。でもそれは、終ってしまったという事は、決してネガティブな事ではない。僕は正直、ジュンジュン&リンリンさんに何らかの可能性を感じてしまった。「私の中でのモーニング娘。がいなくなっちゃった」後のがきさんが、どんな娘。像を形成していくのか、それを見ずには死ねないだろ? 藤本さんが率いるモーニング娘。のコンセプトは「混沌」だ。そこには何だか昔懐かしい娘。の匂いを感じるし、その混沌はまさしく「五期」加入当時のコンセプトそのものだった様に思えて感慨深い。きっとそこには、奇跡みたいな素敵な未来と、意外な位凄い何かが待っている。待っている!!!


「出会いがあれば別れがあり、終わりがあるから、また始まる。」



あいぼん」にありがとう



「のの」にさようなら



そして、四期全員に、おめでとう。