それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

劇団ゲキハロ第4回公演「携帯小説家」


ふと気づけば、池袋サンシャイン劇場に佇んでいる私がいました。昨年の寝る子はキュート以来のゲキハロということで、期待感丸出しで鑑賞してきましたよ。今回も結果的に「アイドル」という存在そのものを問う内容になってましたね。やっぱりアイドルのお芝居っていうのは、「アイドルそのもの」を観に行っているという感覚が当然あるわけで、極端な話、脚本にメッセージ性やエンターテイメント性が全くなくとも成立してしまうと思うんです。むしろ、中途半端にそういったものが潜んでいる方が、「つまらない」と感じさせてしまうこともあります。物語の中心を上手い役者さんで固めて話を進め、あくまでアイドルは「添え物」っていう作り方ですね。それと正反対の思想で演出されたものが「リボンの騎士」だったように思いますし、その後の高評価もうなずける仕上がりでした。アイドルが、ただそこに存在している。普段、℃-uteを「演じている」彼女たちが、お芝居を「演じている」。そこにこそ、アイドルという存在が発する、意図せざるメッセージが浮かび上がってくると思うのです。昨年の寝る子はキュートに関しては、その意図せざるメッセージ性を「意図的」に脚本に忍ばせていたように思います(参照:http://d.hatena.ne.jp/lovelikelie/20070621/p1)。


さてそれを踏まえて今回の「携帯小説家」なんですが、正直いって、当初はテーマに何故「ケータイ小説」を持ってきたのかが掴めませんでした。全体のストーリーとしては、『サムライ☆ベイビー』というケイタイ小説を大ヒットさせた、作家の夢野美鈴の正体が、実は初めて顔を合わせる7人の少女(℃-ute)だった。大ヒットを受けて、第2作目を書こうとするが、全く書き出せずに……というもの。序盤から割とありふれた「ケータイ小説批判」がちりばめられてます。大人がケータイ小説を読んでも「虚構」だとしか思わないけれど、若い子はそれを「リアル」だと感じている、的な。その後、いわゆる文学界の権威的な小説家・吉原が登場して、「ケータイ小説」と「小説」は全く違うものだという対比構造を形成していきます。そして、「ど素人」が気軽に何の「責任」も背負わずに書けるのが「ケータイ」で、言葉の重みや責任を背負う事ができるプロの仕事が「小説」だという定義が示されます。吉原は、彼女達の保護者的な役割である編集者にこう問います。「売れれば作品のクオリティはどうでもいいのか。」「所詮、金儲けのことしか考えていないのか。」「君はケータイ小説を面白いと思って売っているのか。」 それに対しての反論として「クオリティの優劣を決めるのは、誰なのか。それは作家でも編集者でもなく、読者である。ケータイ小説が売れているという現実は、読者に求められているからこそ起こり得る。活字離れが進む現代において、ケータイ小説にこそ、私は希望を見出す」と述べる編集者。


ここでやっと、「何故、ケータイ小説がテーマだったのか」という疑問の答えが見え始めました。「ケータイ小説=アイドル」「小説=アーティスト」という比喩なんじゃねぇか、と。例えば、「モーニング娘。」は当初「初めて顔を合わせたど素人」の集団でした。アイドルとファンのコミュニケーションは、当人達にとっては「リアル」なものですが、その周囲からは冷ややかな目で捉えられることが多いですよね。所謂、「擬似恋愛」という言葉に代表されるような「虚構」として。「アイドルなんて」などとバカにしながら、一方でipodPerfumeの曲を聴いている世の中です。ものの「価値」というものは、誰かがそれを「求めた」瞬間に発生します。そして誰かが「価値」を見出しているものに対して、それを簡単に否定する権利を、私たちは誰一人として持ち合わせていないのです。アイドル達には、決して何らかの客観的な判断に基づく才能やスキルがあるわけではないかもしれない。所詮、ど素人がやっていることなのかもしれない。それでも「ケータイ小説(アイドル)にこそ、私は希望を見出す」と言い切れること、言い切ること。矢島舞美は終盤、自分達が書いたケータイ小説の評価を、涙ながらに求めます。「私たちの小説、面白くなかったですか」と。私は、このセリフに希望を感じます。彼女達が、自分で考え、自ら成長しようともがくこと、それこそが「℃素人(アイドル)」が「プロ(アーティスト)」に変わっていくことだから。吉原が彼女達に「小説」を書くためのアドバイスとして「人に頼らず、自分で考えろ。」「自分の心を正確に言葉にする方法を見つけなさい。自分の言葉をみつけなさい。」という言葉を送っていましたが、これこそがまさに作家から℃-uteへのメッセージなんじゃないかなぁ。


『サムライ☆ベイビー』は、彼女達のキャラや私生活、また彼女達の「こうなりたい」という願望をそのまま反映した作品でした。私は、これこそまさに「アイドル現象」そのもののメタファーだと思うのです。私たちは常にアイドルの「素」を求めます。古くはASAYANだったり、PVのメイキング的なものだったり、ゲームや企画を通じて彼女等の素のリアクションや人間関係を観察できる番組・DVDは評価が高いですよね。でも、それはあくまで「ケータイ小説」的なんですね。別にそれがいいとか悪いとか、そーゆーことじゃなくて。それを自覚しておかなければいけない、という意味で。ラスト、矢島さんは「ケータイ小説」ではなく「小説」を書き始めます。その差異とは何なのか。それがきっと虚構を「意図的に」作り出せるか否か、ということなんだと思います。虚構を意図的に作り出すこと、それはつまり「矢島舞美」と「芸能人の矢島舞美」とを区別する、セルフプロデュースできる能力を身に付けることに他なりません。ラストで、小説家・吉原はワイドショーのコメンテーターになっています。そこでの彼はいわゆる「オカマキャラ」として、ピエロに徹しているのです。もちろん意図的に。このエピソードからも「小説家」と「ケータイ小説家」の違いが見て取れます。ここで、「携帯小説家」というタイトルの意味がやっと理解できました。「小説家」という意図的な虚構を作り出せる者ではなく、あくまで彼女達は「ケータイ小説家」なんだという主張。つまり、今回の芝居のタイトルはそのものずばり「アイドル」だっていう言い換えができちゃう気がします。


すると、ここでもう一つ疑問がでてきます。何故「今」「℃-uteが」この芝居をやらなければいけなかったか、ということです。でもね、それはもうね、実は簡単に答えが出ちゃいました。今年もやっぱり『彼女』のことを描いているんだなと、そういうふうに感じています。終盤、岡井さんが軽い気持ちで吉原の個人情報をネットに書きこんでしまい、それがあっという間にネット上で「祭り」になってしまうという件があります。吉原は「誰も悪くない。誰も犯人ではない。そういう社会なんだ。」と岡井さんを諭すんですが、これってもうね、『彼女』の事件を思い出さざるを得ないじゃないですか。実はこの芝居では、℃-uteとは別にもう一人、夢を追いかける女性が登場してるんですね。小説家の吉原の娘なんだけど、この子の夢が「ダンサー」なのよ。℃-uteが、なんで「ケータイ小説を書き始めたか」を語るシーンがあって、この娘はそれをずっと横で聞いてるんだよね。そうするとさ、舞台上にはさ、「8人」いるんだよ。いろんな夢を持った「8人」がそこに並んでるわけさ。ほら、そこでどうしても『彼女』のダンスを重ねてしまうじゃないですか。どうでもいいけど、萩原さんには最後に7人目の弟が生まれて「8人」姉弟になるし。「分別を忘れられない恋なんて、そもそも恋ではない」なんて萩原さんのセリフもあったけど、どうしてるのかな、『彼女』 元気にしてるのかな。


夢野美鈴=℃-uteっていう比喩があって、彼女達の夢が一様に「小説家ではない」という設定もおもろいね。あくまで世の中に飛び出すための手段としての「夢野美鈴」であり、最終的な目標や自分の理想像も全員ばらばらで。でも、そういう7人が集まってるから、きっと彼女達は魅力的に映るんだろう。物語のラストは夢野美鈴を「解散」した後日談で、これってもういつかやってくる「その日」を示唆してる訳じゃん。奇しくもエルダークラブ解散なんていうのと重なってね。感慨深かったですよ。それでも、やっぱり救われたのは「終わり」というテロップが出た後に「ここからが始まり」なんだと掲げられたことで。


アイドルは死ぬんです。いつかはアイドルでいられなくなる日がやってきてしまう。けれども、それは決してマイナスのことでも、悲観的なことでもない。夢を持ち、目標を持ち、それに向かって努力する。前を向いて歩き続ける。「出会いがあれば別れがあり、終わりがあるから、また始まる。」って誰かが言ってたけど、そういうことなんだろう。その日がこの芝居のラストのように、みんなが前を向いて、笑顔で迎えられることを願って止みません。あ、そうそう。芝居のあとのライブでのダンスがさ、凄すぎた。圧倒的だねみんな。その姿はもう、確実に「プロ」のそれでした。