東京事変「閃光少女」 / 椎名林檎とわたし。
まったくもって椎名林檎という人は、とんでもない境地に達してしまったなと、そんなふうに思うのです。私はここまで、肯定的に、生に満ち溢れた「終わり」を表現した歌手を知りません。
彼女は高らかに、こう宣言します。
今日現在が確かなら万事快調よ
明日には全く憶えて居なくたっていいの
昨日の予想が感度を奪うわ
先回りしないで
この瞬間。今、この瞬間に生きている。その事実こそが最も大切であるというシンプルな主張。現在が、今、確かにここにあるのならば、過去や未来なんていうものは何の関係もないんだという皮膚感覚。そして、この主張はさらに強まっていきます。
今日現在を最高値で通過して行こうよ
明日まで電池を残す考えなんてないの
昨日の誤解で歪んだ焦点(ピント)は
新しく合わせて
切り取ってよ、一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
私は今しか知らない
あなたの今に閃きたい
現在を積み重ねること、それは未来のための保険なんかではなく、「今」をいかに生きていくか、いかに楽しむかを突き詰めていった結果でしかない。過去の失敗や苦い経験は、あくまで「過去」でしかないし、それは決して「現在」ではない。わたしたちが生きていくということは、「過去」をやり直していくことではないのだから。だから、わたしは今しか知らないのである。今がいかにしてあるのか、現在をいかに通過していくのか、それを突き詰めることでしかわたしはここに在ることはできないし、それがおそらく「生きる」という行為そのものなんだろう。
しかし、ここで彼女のメッセージは、反転します。
今日現在がどんな昨日よりも好調よ
明日からはそうは思えなくたっていいの
呼吸が鼓動が大きく聴こえる
今を精一杯、悔いなく、ポジティブに生きていく。もちろん、そうやって生きていくことは、どんな人にとっても理想でしょう。でも、人は、後悔する生き物です。なぜなら、わたしたちは、覚えています。昨日の過ちを。わたしたちは、繰り返します。過去の失敗を。だから、わたしたちは失望します。未来の「わたし」に。
でも、彼女はここで、それすら肯定しているのです。「明日からはそうは思えなくたっていいの」 未来は、明るくないのかもしれない。明日の自分は、今の自分に絶望しているのかもしれない。それでも、それでも、今を生きなさい、と。
生きている内に
焼きついてよ、一瞬の光で
またとないいのちを
使い切っていくから
私は今しか知らない
貴方の今を閃きたい
今日現在を最高値で通過して行った先に、その先にどんな未来が待っているのかはわからない。私は今しか知らないから。知らない、というよりわかり得ないから。わからないということは、やはり不安なのである。自分の未来を信じている人は、自分の未来を「知っている」。少なくとも自分の「理想像」を思い描くことができる。「今」しか知らないということはつまり、未来が描けないということだ。
だからいつか、現在を振り返ったときに、この一瞬を、この一瞬が自分の、誰かの記憶に残っているように生きていけ、ということなんだろう。現在は閃光のように終っていく。わたしたちが生きていくということは、今を終らせていくということ。どんなに素晴らしい「今」も、閃光のように消えていく。未来には暗雲が立ち込めているのかもしれない。でも、それでいいじゃないか。今が確かに輝いているのなら、そんな現在がここにあるのなら、あったのなら、それでいいじゃないか。逆にいえば、どんなに絶望的な「今」だって、一瞬の光のように溶けていってしまうんだから。そして、そんな今だって「今日現在が確かなら万事快調」なのである。いのちを使い切って終ってしまったとしても。ここに彼女なりの「生」を最大限に肯定していこうという決意を感じるのです。
思えば、椎名林檎という人は、常にある種の緊迫感を身に纏っていました。それは常に「終わり」を意識していたからこそのものだったんでしょう。いつか突然、僕らの前から消えうせてしまう様な、そんな危うさ。終わりが見えていることへの、美しさとか尊さとか、愛おしさだとか。彼女が自らの生を削り取っていく、その様に人間としての壮絶な強さを感じたのです。
その後、子供を産み育て、東京事変という帰るべき場所が見つかった彼女には、生の喜びに満ち溢れていったように思えました。そこにもやはり、私は「生きる」ということが発する、圧倒的なパワーを見たのです。
そうして、彼女が辿り着いた境地。「終っていくことのうつくしさ」も「はじまることのせつなさ」も、全部ひっくるめて。
「これが最期だって光って居たい」
そんな現在を積み重ねて、いつしか、椎名林檎が生まれて10年間が過ぎていました。そして、これからも彼女がそこにいるという現在を積み重ねていって欲しいなと思います。また、貴方に逢えるのを、楽しみに待っています。貴方は、私の、一生ものなのですから。
私はずっと唄っている。そうでしたね。そうでした。さらばさいたまにて逢いましょう。それでは。