それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

それにはあまり意味がない。


サッカー日本代表やWBCの熱狂はしばしばナショナリズム的な視点で語られる事がある。表面上は大人数で日本を代表して戦う選手達を、国歌を歌って国旗を振りながら「ニッポン」コールで応援しているわけであり、それはナショナリズムの高まりとも取れるのかもしれない。さらには一部でネット右翼とも表現できる層が形成されているとも言われているので、余計にそういった言論の流れは正しいかの様に錯覚してしまう。


しかしそれは恐らく正しくない。何故ならその国旗やニッポンコールには「意味」が無いからである。意味というのはつまり「日本」や「ナショナリズム」の象徴という事なんだけど、競技場で声を枯らして応援している方達や、もしくはTVやニュースを見ている大半の層はそういった行動をある一定の応援におけるルールとして捉えているのではないだろうか。 バレーボール中継を思い出して欲しい。数分前までジャニーズのアイドルに熱狂していた女性達が、試合が始まると綺麗に「ニッポンチャチャチャ」を決めてくるあの映像を。


また、長渕剛さんのライブDVDを偶然視聴する機会があり(その感想はまた別枠で書きたい。笑顔で愛犬と戯れるナガブチなど魅力的映像満載で、書きたい事が山ほどある)、そこで印象的な映像を目にした。日本武道館のライブにおいて、参加したファンが国旗を振っているのである。それは結局長渕さんを喜ばせたいファン心理以外の何物でもない。長渕さんがそうやったら喜ぶだろう、長渕さんの思想に触れたい近づきたいといういじらしい心理である。この構造こそがまさに「ナショナリズムに見えるもの」の正体である気がするのだがどうだろう。


そのコミュニティに参加するための一定の儀式がたまたま「ニッポン」っていうキーワードだったと(2ちゃんでの韓国議論って嫌韓嫌韓厨叩き、どちらのコミュニティに属するかを延々やってるだけだと思う)。 娘。テキストサイトで置き換えたら「俺、キモオタだからなぁ」「つんく♂最高 or 最低」「アップフロントって何てダメな事務所なんだよ……」みたいな事でしょうか。


最後に長渕さんの言葉で締めたいと思います。


「俺は、右でも左でもない。ただ真っ直ぐ生きたいだけじゃい!」


男前だわ。吉田栄作的な意味も込めて。「も」ね「も」。