それにはあまり意味がない

自由に生きて、強く死ぬ。

「ゲド戦記」宮崎吾朗

見てきましたよ「ゲド戦記」。何かと公開前から周囲の雑音が大きかった、良くも悪くも話題作である夏の長編ジブリ作品なんですけども。一言でこの映画を評するとするならば、逆ウディ・アレン + エヴァンゲリオン風味という感じ。ウディ・アレンっていうのは私の大好きな映画監督なのですが、この人の作風で特徴的なのはとにかく自分の人生を茶化す事。私生活をコメディ化し、皮肉で覆い隠して作られた作品達は、アレンの人生を理解してから鑑賞するとさらに楽しめる様になるのです。ゲド戦記の監督である宮崎吾朗氏のパブリックイメージというのは「宮崎駿監督の息子」以上でも以下でもないと思うのですが、彼自身、その肩書きが人生においてプレッシャーになっていたであろう事は想像に難くありません。少なくとも世間からそういう父子の物語を求められている事を、吾朗氏は理解しているでしょう。この映画は主人公アレンが父を刺し殺すという衝撃的なシーンから幕を開ける訳なんですが、私としてはこの時点で「ゲド戦記」という被り物をかぶった吾朗氏の(あくまでパブリックイメージの中での)セルフパロディという視点で物語を見ることにしました。


作中、主人公は常に何かに脅え、また自分自身の幻影に追われている感覚に囚われています。その理由が明かされる部分とそうでない部分が分かれていて、説明不足とも取れるでしょう。しかし、私はその理由のない精神的圧迫・プレッシャー描写が逆にリアルに感じられました。作品全体を通して淡々と、どこか灰色がかったトーンで物語が進んでいく中で、主人公が精神的に追い詰められていく様子は、エヴァの碇君の様な父や周囲へのコンプレックス(明らかに主人公アレンの描写はエヴァのそれを真似て作られている)を感じさせ、またそれは吾朗氏の心象風景を覗いているかのような錯覚すら覚えました。本当に宮崎家の中で親子の対立やコンプレックスがあるかどうかは置いといてね。あくまで「よくある話」として、そういう事を下世話な私たちは想像しがちで。何でもかんでもそういうよくある話に当てはめたがるのも、私たちの悪い所であって。ここまでこの作品の前評判が悪くて、それを作品を見てもいない人たちが受け入れてるっていうのは世間も「親の七光り」的ストーリーを求めてるんだろうなーとも思います。しかし本当に七光りかというと、そうとも言えない所もありまして。悪役、というより「陰」の描き方には独特のセンスを感じましたよ。一番魅力的だったキャラクターが敵役のクモだった事にもそれは表れていると思います。なのでこういったファンタジーの世界観というよりも、むしろ現代劇で「裏・耳をすませば」みたいな作品を作らせたら、案外固定ファンが付きそうな、そんな雰囲気を持つ監督なんじゃないかなと感じましたね。


あと、宮崎アニメの特徴として「女性」の捉え方、描き方があると思うんですが、ここは特にセルフパロディー感満載でした。これは作品見ていただいた方が早いんですが、中でもテルーの処女性・全能性というのは今までの宮崎駿アニメに出てきた女性主人公像をなぞっている節があり、アレンと恋におちるシーンの描き方はむしろ悪意というか、吾朗さんわかってて茶化してないか? ってくらいわかりやすく「駿テイスト」溢れる表現になっていました。また、ラストにアレンのピンチが訪れた際、テルーが真の力を発揮し、巨大な竜に変身する訳なんですが、ここなんてまさにエヴァンゲリオンであり駿テイストそのものでしょう。母性の具現化表現(エヴァ=竜)もそうですし、全ては母性の前にひれ伏すしかないという、その感覚がね。「テルーの唄」を一人立ち尽くし、泣きながら聴いているアレンというシーンはさすがにやり過ぎだと思いますけどもね(商業的過ぎるという意味も込めて)。


結局の所、良い面・悪い面とも垣間見える、初監督らしい作品であったと思います。ここまで叩かれる作品ではないでしょうし、そこまで大騒ぎする作品でもないのかと。ただ、最近の世論の傾向として、一度誰かがある事象を「悪い事」だとすると雪崩式にどんどん評価が転がっていってしまって、本質から評価が一人歩きしていってしまう事が多いと思います。一度、世間の評価と別個の所で、自分なりの作品の捉え方、評価軸と言うものを持つべきなのかなと自省しつつ。